Interview & Report インタビュー & レポート
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スペシャルインタビュー <高橋 俊雄 (東京医師アカデミー名誉顧問)>

東京から日本の医療全体を変えよう

高橋顧問は東京医師アカデミーに立ち上げから関わられていらっしゃいますが、顧問ご自身どのような思いで東京医師アカデミー顧問を引き受けられたのですか?

東京医師アカデミーが始まったのは2008年ですが、その約1年前に準備室が設置されたんですよ。その少し前、2006年の暮れに「東京都が全国初の専門医養成制度東京医師アカデミーというものを創設するので、ぜひ力を貸してほしい」という要請を受けました。これは今までに前例のない組織だと思いましたね。それまでは専門医の養成・教育は主に大学が行っていたのですが、東京都がそういったことに乗り出してきたということで、大学とは違う医師の教育システムを創り東京から日本の医療全体を変えようという意気込みが感じられましたね。

私は大学で教授をしていたし、院長として駒込病院、杏雲堂病院といった第一線の病院にもいたので、そういうノウハウも生かして医師教育のためのシステムに協力してほしいということだったと思います。私自身、長年教育をライフワークにしてきたので、人生の総決算としてこれを引き受けようと思いました。

医師の教育システムを実現させるためには、十分な症例数があり、指導する人材が揃っているという前提条件が必要だと思いますが、当時の都立・公社病院にはそういった医師を教育するための環境は整っていましたか?

東京都には、駒込病院という非常に歴史のある病院があり、レジデント教育には30年以上の歴史を持ち全国でも有名でした。駒込出身の大学教授も何人もいて、全国に優秀な医師を輩出していました。私は1999年に院長として駒込に赴任しましたが、その時に駒込のレジデントについて感じたことは、非常に多くの症例に恵まれ、指導医たちからの非常に熱心な教育を受けている、ということでした。同年代の大学の医師と比較して臨床的な力量ははるかに駒込のレジデントの方が上だと感じましたね。

ただ、駒込の院長時代は、正直他の都立病院についてあまりよく知りませんでした。でもその後、杏雲堂病院の院長の時に東京医師アカデミーの準備室でみたところでは、駒込以外でも新しい教育法で医師の育成をやろうという動きがありました。例えば府中病院(現多摩総合医療センター)や神経病院にも非常に教育熱心な先生がおられた。しかし、都立・公社病院全体としては医師の卒後教育や環境は未だ整っていませんでしたね。

何を、いつまでに、どの程度できるようになるか

東京医師アカデミーではどのような専門医の養成をめざしているのですか?

東京医師アカデミーの基本理念は、総合診療能力を持った患者さん本位の専門医の養成です。最近の医療は専門分化が進んできましたので、自分の専門分野以外は全く診られない医師が多くなりました。夜中に緊急患者が来ても自分は専門でないから患者さんを全く診ないとか、震災時の緊急対応ができない専門医とか、パソコンばかり見て患者さんと対話のない医師とかね。決して少数じゃない。私はこのような医師は、医師として失格だと思っています。このようなことのないように、東京医師アカデミーではER・救急研修を一定期間義務化していますし、災害医療研修やコミュニケーション能力を高めるための全体研修もあります。実際、昨年3月の東日本大震災でも多くのアカデミー生が被災地の救護活動に参加して活躍してくれました。私自身も震災直後の3月下旬に、地震・津波・原発事故に苦しむ福島県いわき市の医療救護に参加しました。被災地の方々から大変感謝されたと同時に、あのような状況でこそ的確に動ける医師の育成が必要だと実感しましたね。

都立・公社病院で医師の教育を行うことについて、レジデントにとってはどんなメリットがありますか?

まずね、都立病院の大きな特徴として、行政的医療を担っているという点があります。他の市中病院等では引き受けられないような、重症度の高い患者さん、例えば癌の進行した患者さんだとか、結核、重症精神・神経疾患、重症小児疾患等、そういった患者さんにもちゃんと診療をしていくというのは都立病院の役目ですね。そういった患者さんや経済的に問題を抱える人たちをレジデント時代に診られるということは非常によい経験になります。

それとね、東京都には14の都立・公社病院がありますが、病院によってそれぞれ特徴があるわけですよ。救急が非常に多いとか、がんが専門であるとか、精神科が専門であるとか、地域によって患者さんのタイプも違う。東京医師アカデミーのひとつのメリットは、そういった色々な病院をローテイトして、多彩な患者さんを診られるということです。しかも都立・公社病院は7,000床を越えるわが国では最多のベッド数を持っていて、そのスケールメリットを活用して研修できるというのは他に類がない東京医師アカデミーの利点だと思いますね。

目標を設定して到達度をこまめにチェックしながら研修できることも東京医師アカデミーの魅力と思います。その点についてはいかがでしょうか?

そのとおりです。東京医師アカデミーでは、いわゆる“先輩の背中を見て覚えろ”といった従来の日本的徒弟教育制度から脱し、西欧型の教育制度を取り入れました。何を、いつまでに、どの程度できるようになるか到達目標(SBO's)を明らかにし、その評価もしっかり行うということですね。評価はまずレジデント自身の自己評価、指導医による評価、それからレジデントによる指導医の評価、この3つの評価があります。また、上のクラスが下を教えるという屋根瓦教育も重要視しています。人を教えるということは、その人の3倍も4倍も知らなければならない。技術もいる。自分も一生懸命勉強したり技術を磨いたりしなくちゃならないという点で屋根瓦教育というのは非常に効果的なシステムだと思います。

もちろん従来の徒弟教育制度にも良い点もありますよ。実際にそれによって多くの優秀な人材も育っていますしね。でも今の若い人は、そういったことに全然馴染みがないし、合わないだろうと思うようになりましたね。

医学は完成されたものではない

臨床も研究もやりたいというレジデントも多いと思いますが、研究的な側面から東京医師アカデミーを見た場合、そうしたレジデントにとって東京医師アカデミーはどんな環境ですか?

一般の市中病院と違って、都立病院には研究的な要素があり、臨床と並行して研究もできるということも大きなメリットですね。東京都には東京都医学総合研究所という国内外に知れ渡った立派な研究をしている研究所があり、そこと一緒にもできるし、あるいは東京には大学もたくさんありますから、大学とタイアップすることもできる。そういう点で研究をやる環境にも大いに恵まれていると思います。

医師アカデミーでは臨床を最優先することは確かなんですが、臨床だけやっていたのでは職人と変わりがない。医療というのはただ技術だけではないんですよ。医学は完成されたものではなく、日進月歩しています。これに追いついていくには、自分が臨床で学んだことを更に進歩させなければなりません。そのためには独創性をもった臨床研究に自ら参画することが大変大切なのです。つまり優れた医師になるには、リサーチマインドを持つことが大事だと思いますね。

臨床をしているからこそ研究も必要であると

何も動物実験やるとか、試験管を振るとか、そういう必要はないと思うんです。基礎的研究で得られた成果をどのようにして臨床に応用するか、From bench to bed, from bed to bench,即ちトランスレーショナルリサーチですね。動物だけで実験していてもだめ、動物と人と違うことはたくさんある。動物に効いても人には全く効かないとかね、逆に人には効いて動物には効かないというケースもある。また、臨床の現場から基礎研究側に何を研究してほしいのか提案する。そういうのをちゃんと発信できるのは臨床の医者じゃなきゃできない。

それから重要なことは、研究成果は必ず英語で論文を書くことです。そうしないと、研究成果は国際的に認められない。

何か新しいことをやりたい

顧問ご自身のことについて伺います。現在は東京医師アカデミーの顧問をされていますが、ずっと東京にいたわけではないんですよね。

私は東北大学医学部を卒業後、昔はインターンというのがあって、1年間で全科をローテーションしました。その後、東北大学の外科医局に入りました。当時、日本の医局はどこも封建的でしたが、特に外科は徒弟制度の権化のようなものでした。手術の術者は上層部だけ、下っ端はそれをしっかり見て技術を盗めという風潮でした。私はこの外科教室で手を殴られたり罵声を浴びたり、日本的徒弟制度の下で日夜を問わず厳しい日本的トレーニング受けました。その後何か新しいことをやりたいと思い、1967年アメリカ・デトロイトにいきました。デトロイトは当時、世界の富が集まってくるアメリカで最も景気のいい街でした。1ドル360円の時代ですね。最初はリサーチ・フェローとして、乳がんの研究をアメリカ人と共に行いました。

1969年に医局命令でアメリカから帰国し、今度は京都府立医科大学に行きました。京都府立医大は歴史と伝統のある名門医科大学で、ほとんどの医師は府立医大出身者でしたので、外様の私には色々な苦難の道がありました。伝統を重視する京都ならではということも少なからずありましたが、ここでは省略しましょう(笑) そこで、私は誰もやっていない独創的研究を心がけ、Drug Delivery System(DDS)を用いた世界初のがん標的療法・制癌剤エマルジョンを開発しました。

DDSは国際的にも高い評価を受けたと伺っています。

インパクトファクターの高い英文誌に投稿したところ、即採用となりましたね。このDDSがん標的治療は分子標的療法へと発展し、現在のがん化学療法の主流につながっています。研究成果を名のある英文誌に発表することの大切さを知りました。このようなことが認められたのでしょう。今度は自分では応募もしていなかった、当時新設された秋田大学の外科教授として招聘されました。秋田でも全くのゼロからの出発でしたね。

臨床第一主義の教授時代

弱冠41歳という非常に若い教授の誕生ですね。ご苦労はありませんでしたか?

若かったですね。学生の講義、患者診療・手術、新入医局員の教育、研究等などすべて自分でやりました。患者を集めるためには、医師会の先生方とも仲良くし、今でいう医療連携もやりました。でもこのような努力の甲斐があってか、患者はうなぎ登りに増えていきましたね。入局者も増え、秋田大学最大の教室となりました。私は秋田に骨を埋めようと思っていたんですよ。でも京都にまた帰ってきて欲しいと説得されて。京都から学長までおいでいただいてね。京都府立医大に戻る意を決したのです。そして、京都府立大学第一外科教授を14年間務めました。

京都府立医大の教授時代は国際学会を主宰されるなど非常に多くの実績を残されていますが、教授として大切にされていたことは何ですか?

京都でも秋田と同様に臨床第一主義を貫いたんですよ。まず臨床を大切にしました。その結果、患者さんは右肩上がりに増え胃癌症例数は日本一になりました。私は患者数は臨床評価のバロメーターであると思っています。私の外科臨床指導法は、今から見れば日本的徒弟制度だったかも知れません。それでも8名の教授が誕生し、その他全国各地でたくさんの教室出身者が活躍しています。ですから、日本的教育法の全てが悪いとは今でも思ってはいません。

研究は独創的研究を心がけ、できるだけ英文で発表するよう教室員を指導し、400編程の英文論文を発表させました。そのせいで、教室には常時欧米やアジアから留学生や見学者が来ていましたね。

また、京都でUICCシンポジウムや第一回国際胃癌学会を開催することもできましたね。それから、京都府立医大では創立125年以来初めて、日本外科学会と日本癌学会を主宰することができました。これは私自身はもちろん、大学や教室員にも大きな誇りと自信を与え、大きな励みになったと思います。

40年以上前のアメリカにて

若い頃アメリカに行かれていたということですが、そこで感じたことは何ですか?

アメリカには2回行っているんですよ。最初はさっき言ったように1967年からデトロイト、その次は秋田大の教授になる前の1975年に、ピッツバーグ大学の外科の客員准教授として招請されました。この時は外科手術をしたり患者の診療も行いました。

アメリカで痛感したことは、実力主義であるということです。実力のある者は学閥など関係なくどんどん伸びていく。しかし、実力の無いものは惨めですよ。レジデントは非常に厳しいトレーニングを受ける。朝から晩まで、それこそ寝る時間もないくらい厳しい。試験も厳しい。アメリカでは当時から専門医制度がしっかりしていて、真に実力のある者だけが厳しい試験を受けて定められた数の専門医になっていく。少数精鋭主義ですね。研究面では若いドクターでも、良いアイデアを出せばそれをどんどん採用していく。今から40年以上前の話だけどそう感じましたね。

そして、東京へ

そして、いよいよ駒込病院の院長として東京での人生がスタートするわけですね。

京都府立医大を定年後、全く思いもかけず、東京都立駒込病院からお呼びがかかりました。もちろん、ここでも外様です(笑) 学閥もなく全く関係のないこの東京の有名大病院を一体どう運営すればいいのか、大いに迷いました。私が駒込の院長になった当時、石原都知事が誕生し、知事は真っ先に医療改革に着手しました。院長として経営改善、医療連携、在院日数短縮など次々に新しい施策を実行に移すため、職員にはかなり厳しいことも言いました。でもみんな本当によくやってくれましたね。その結果、駒込病院の経営状態もどんどんよくなり、がんの症例数は癌研病院を凌ぐまでとなりました。そして病院は、東京都のがん感染症センターとしての役割を果たすこととなったのです。

駒込病院退任後は、御茶ノ水にある1883年創立の老舗病院・佐々木研究所付属杏雲堂病院院長に招かれました。この病院は、創設者が亡くなってから、職員の士気が低下しており、赤字が続いていました。ここでも夜間診療、院長回診、近隣病院・医師会との医療連携などを様々な経営改善策を行い、3年目からは40年ぶりの黒字転換を成し遂げることができました。

その後、再び縁あってこの東京医師アカデミーにお呼びいただいたわけです。人々には「波乱万丈の渡り鳥人生で大変でしたね」と言われますが、私は与えられた場所でベストを尽くしながら、人生をエンジョイしてきたと思っています。今後どれだけ生きられるか分かりませんが、これからもそうして生きていきたいと思っています。

外科を選んでよかった

外科の中で専門はどちらだったんですか?

胃や腸が専門でしたね。それが一番患者さんが多いんですよ。胃がんとか大腸がんとかね。その他肝・胆・膵外科、肺の手術もやりました。7,000人程の手術をしましたね。

そもそも外科を選んだ理由は何ですか?

外科を選んだのは、そんなに深い意味はなかったんですよ。まず第1は自分の腕(手術)で、患者さんを治すことができる、ということです。薬や他に頼らずできるということ。第2に、外科をやっておけば、開業しても内科的なことはできるだろうと、“つぶし”がきくだろうと思ったわけです。当時は大学の教授になろうなんて夢にも思ったことないから。それから第3は、私は本当のこと言ってあまり勉強好きではなかった(笑) 外科医は首から下があればいいと先輩に誘われてね(笑) それは後でウソだってことが分かったんだけど。外科は当然いろいろなことを勉強しなくちゃならんということは後で知りました。今は3Kと揶揄されて外科医になる人が減っていて大変ですね。でも実際は大変なやりがいがあって、私は外科を選んでよかったと思っています。

外科医としての道を選んだからこそ今の顧問があるわけですよね。顧問が医師として一番うれしかったことは何ですか?

まずね、一番うれしいのはね、病気が治って患者さんが帰るときに「ありがとうございました」って言われるとき、これは医師として本当にうれしい瞬間です。今までいろんな患者さんと出会いましたがそれぞれに思い出があります。特に外科ですと、難しい手術がありますよね。その人が手術によって治って、「ありがとうございました。おかげで命を助けていただきました」と言われる瞬間が最高ですね。私は今はもう77歳、喜寿になりましたが、今になっても患者さんから、先生のおかげでこのように今も元気ですという風な手紙をもらったり、会ったりすると、本当にこれは外科冥利につきると思いますね。何も外科だけではなくて、それぞれの専門分野で医師になってあるいは医療に携わってよかったなと思うのは、そういった瞬間ではないかと思いますね。

5つの“H”

教授として執刀されたり、教育する側の立場にあったりという顧問の人生のひとつの結果として今医師アカデミーにたどり着いたと思うのですが、レジデントに望むことはありますか?

私は常々ね、大学にいた頃から言っていた言葉があります。医者には5つの“H”が大切だと。第1のHは医者としてのHeart(温かい心)ですね。常に患者さん本位の治療を行って、体の痛みだけでなく、心の痛みまで分かる医者であること。第2のHはHead(頭)ですね。これは専門領域をしっかり勉強し、十分頭を使って診療すること。第3のHはHand(手)ですね。医術というのは知識だけでは患者さんは治せない、技術の腕を磨くこと。第4のHはHealth(健康)ですね。医者が自分で体を壊しては何もできない。だから健康には十分気をつけて規律正しい生活をすること。そして第5のHはHumor(ユーモア)です。医師は人を相手にする仕事です。患者さん、同僚、先輩とのコミュニケーション、それにはゆとりをもったユーモア精神をもってやっていくということが大切だということです。これら“5H”は結婚式のときによく言ってたんだけどもね(笑)

若いレジデントは今が非常に大切な時期なんですよ。今自分で身につけた知識や技術は一生自分の血となり肉となります。医師としての成否はこの時期に決まるといっても過言ではないと思います。そういった点で東京医師アカデミー時代の研修は本当に大切な時期だから、しっかりとやってほしいと思いますね。

(於 駒込病院名誉院長室 平成24年1月16日)

高橋 俊雄
東京都病院経営本部東京医師アカデミー名誉顧問
元都立駒込病院院長、同名誉院長
京都府立医科大学名誉教授
日本外科学会名誉会長

高橋 俊雄 略歴
1935年福島県二本松市生まれ
1959年東北大学医学部卒業
1964年東北大学医学部大学院外科学第1修了 医学博士
1967年米国ミシガンがん研究所留学
1969~1975年京都府立医科大学、助手、講師、助教授
1975年米国ピッツバーグ大学外科客員准教授
1976年秋田大学医学部第1外科教授
1984年京都府立医科大学第1外科教授
1998年同上退任 同大学名誉教授
1998年東京都立駒込病院参与
1999年東京都立駒込病院院長
2003年同上退任 同病院名誉院長
2003年財団法人佐々木研究所杏雲堂病院院長
2007年同退職 同病院名誉院長
2007年東京都病院経営本部参与
2008年

東京医師アカデミー顧問

2012年東京医師アカデミー名誉顧問(現在に至る)
<専門> 外科、特に消化器外科、胃癌、大腸癌など手術例約7000人、DDS癌化学療法
<学会長> 日本外科学会長、日本癌学会長、日本DDS学会長、国際胃癌学会事務総長など、現在日本外科学会名誉会長
<受賞> 高松宮妃癌研究賞、中山恒明賞、福島県在外居住者功労賞など
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