Vol.18 ファイナルカウントダウン(5)

2021.2.12

 院長コラムは、私が松沢病院長になった2012年の着任のご挨拶に始まって、今回で18回目になります。先日、ふと気づいたのですが、2019年のNo13までは、「ですます調」で書かれているのに、2020年10月のNo14以降、つまり、ファイナルカウントダウンが始まってからは、「である調」になっていました。そのわけを考えてみると、ファイナルカウントダウン(1)から(4)は、すべて、新型コロナウイルス感染に関連したコラムで、私が現状に腹を立てているから文体がきつくなったのだろうと思い至りました。ファイナルカウントダウンもあと2回、当然、次回は本当のファイナルになるので、今回からは怒りを収めることを心掛けながら、ですます調にもどして書いてみたいと思います。
 中学生のころ、「BSCS生物学」という本を買ってもらって読みました。アメリカのハイスクールの教科書だということでしたが、当時の日本の教科書とは比べるべくもない、美しいカラーの図版がたくさんあって、アメリカはすごいなと憧れたものでした。その中の1枚、大きい集気びんの中に、生ごみが入っていてその上をハエが飛んでいるイラストだけが、なぜか私の頭の中に鮮明に残っています。このイラストの解説には、ある科学者が、「ハエは生ごみから生まれる」という仮説を実証しようとして行った実験であるというようなことが書かれていました。私は、毎朝、駅から病院西門までの道路の吸い殻拾いをしているのですが、吸い殻やごみを拾っているとき、BSCS生物学のこのイラストのことをよく思い出すのです。ただし、私の仮説はハエとは関係がなく、「吸い殻とゴミは放っておくと分裂して増える」というものです。拾って拾って拾いまくれば、そういう場所にごみを捨てるには誰でも多少の抵抗があって遠慮します。そのため、吸い殻拾いをさぼらなければ概ねきれいな街が保てます。ところが、少しさぼって吸い殻が散らかり始めると、そういうところでは罪の意識なくポイ捨てができるのでしょう。あっと言う間に吸い殻がたまります。
 病院の門から八幡山駅までの道沿いにゴミ拾いをすると、個人商店や住宅の前の道はきれいで、小さな集合住宅、コンビニの周り、中部精神保健福祉センターの塀沿いには吸い殻やゴミのポイ捨てが多いということに気づきます。個人の住宅や商店の前は、小まめに良く掃除がされていていつもきれいなのでゴミが捨てられないのだと思います。コンビニは、マニュアルどおり清掃がなされ店内は清潔に保たれますが、客が店のレンジで温めたファストフードを食べている路地には目が届きません。最近、多くのコンビニは、家庭ゴミの投げ入れを嫌って、ゴミ箱を店内に置いていますが、必ずしも店内に食べるスペースはないので、勢い、食べ物や飲み物を買った客は店の脇の路地で食べ、そのまま、ゴミを置き去りにします。路地に面した自販機の隣には、空き缶やペットボトルを回収するゴミ箱がありますが、これまた定刻にしか回収されないので、朝は入りきらない空き缶やペットボトルが散乱し、それに混じって、関係のないゴミも捨てられています。中部精神保健福祉センターは柵の内側に空き缶等のポイ捨てがあって、何日かに一度清掃されるようですが、その日が過ぎると次の清掃日まで、日に日にゴミの投げ入れが増えていきます。塀の外に捨てられていれば毎朝拾うことができるのに、わざわざ塀の内側に投げ入れるのはどういう心境でしょう。歩く人にとっては塀の中でも外でも掃除の日まで少しずつ増えていくゴミが目障りなのは同じですが、捨てる方の人にとっては、ゴミの少ない塀の外側に捨てるより、ゴミが捨てられている塀の中に捨てる方が、抵抗が少ないのでしょう。これはもちろん、先の「吸い殻とゴミは放っておくと分裂して増える」という仮説を証明する事実ではありますが、ここから、さらに、新しい仮説を導くことも出来ます。「アノニムスは社会的責任を果たさない」という仮説です。
 ゴミを捨てる人はアノニムスです。知っている人が見ているのに路上にゴミをポイ捨てするのには抵抗がありますが、誰も見ていなければ抵抗はぐっと下がります。都会に住み、駅への道を急ぐ人は、家を出た途端、アノニムスになります。長く八幡山に住んでいる人をのぞき、多くの通勤者は、家を出てから一度も「おはよう」を言わないで勤務先につくのではないでしょうか。私たちの公衆道徳の平均値というのはその程度のものだということでしょう。そうなると、みんなが顔見知りであいさつを交わすコミュニティの方が、見知らぬ人が互いに無関心を貫く大都会より、公衆道徳は高いということになります。
街並みにも2種類あります。顔のある街とない街です。個人商店や個人の住宅には顔がありますが、チェーン店のコンビニには顔がなく、都立の施設にも、自販機にも顔がありません。社会に対してはアノニムスです。アノニムスが自分の施設の周辺の清掃を行うきっかけは大抵近所からの苦情です。苦情を解消するためにゴミが出るならマニュアルを作り、コンビニでは職員の仕事の中に店の前の清掃を組み入れ、精神保健福祉センターのような役所なら清掃を請け負う業者の委託業務を拡大しますが、こういう施設では、苦情に応えるということが自己目的化してしまい、周辺の清掃は、街をきれいに保ちたいという道徳的インセンティブによるのではなく、苦情への対応ということになります。これに対して自分の住宅、自分の店の前を掃除する人には、自分の街をきれいに保ちたいという道徳的インセンティブがあります。私がゴミ拾いをする時刻に、ゴミ出しに出てくる家の奥さんや、そのお向かいで、お父さんの自転車に乗って保育園に出かける小さな男の子は顔見知りで、顔を見れば挨拶をします。赤堤通りに面した和菓子屋さんの奥さんは、私が若い頃、このお店の看板娘でした。今はお互いすっかり年をとりましたが、昔からの顔なじみです。互いの名前さえはっきり知らなくても、私とこの方々とは個人としてのつながりを持っています。毎朝の「お早うございます」、「ありがとうございます」の積み重ねが清潔で安全な街を作るのです。
 話が飛びますが、私は八幡山の松沢病院から弦巻の自宅まで40~50分かけて徒歩で帰ります。その途中、赤堤通りからすずらん通りに入り、経堂駅を抜けて農大通りを通過します。駅を挟んですずらん通りと農大通りは対照的な商店街です。すずらん通りは古い地つきの商店がたくさん残り、店のたたずまいにも売っている物にも個性があります。駅の少し手前にあるせいわ堂という文具店には、時々立ち寄って買い物をします。ところがすずらん通りから駅を抜けて農大通りに入ると街の様相が一変します。フランチャイズのお店が軒を連ねてぐっと賑やかになります。フランチャイズの店の名前は誰でも知っていますが、そこを経営する人が誰なのかは知りません。農大通りはアノニムスの街です。人通りも多く賑やかですから、経済的には農大通りの方がうまくいっているということになるのでしょう。しかし、農大通りはなんとなく騒然として落ち着きのない街のように感じます。今回の新型コロナウイルスで第2回の緊急事態宣言が出されたとき、すずらん通りは一斉に閉店時間が早まり、街がさらに暗くなって静かになりましたが、農大通りの喧噪はほとんど変っていません。どちらの街がウイルス感染の抑え込みに役立っているかは一目瞭然です。名前のある個人は感染防止に主体的に協力しようという道徳的意思が働いても、アノニムスには法律や制度で規制されない限り、収入を犠牲にしてまで感染防止に協力するというインセンティブは働かないのだと思います。
 東京はどんどんアノニムスの街になっていきます。その方が、住み心地がよいという人も多いのでしょう。商店街では大型フランチャイズ店がその時々の時流に乗って出店したり閉店したりする方が経済効率も高いだろうと思います。ところで、私たちの社会を律する規律には、個人的な道徳律、社会的な規範、法的な規範があります。法律に反すれば罰則があり、社会的な規範を破ればその社会で生活しにくくなります。一方、個人の道徳律は、破っても罰則もなく社会的な制裁も働きません。ただ、自分の良心に呵責を感じるだけです。アノニムスの街で道徳を保つのは難しいことです。良心の呵責なんて何度か感じているうち麻痺してしまうからです。アノニムスの街では、近頃はやりの自粛警察のように、せまい社会規範をリンチまがいの方法で強制するか、法律を作って罰金や懲役で違反者を脅迫しなければ秩序が守れません。しかし、何でも法律で縛らなければならない社会が本当に住みやすいでしょうか。細々した社会規範を勝手に作って違反者をつるし上げる社会が心地よいでしょうか。私たちは、経済ばかりを優先して、知らないうちに、儲かりさえすればあとはどうでもよいという社会を作ってしまったような気がします。新型コロナウイルス感染の爆発は、私たちに立ち止まって考える機会をくれたのだと思います。
 吸い殻の話で始まりましたが、今回も新型コロナウイルス感染の話で終わることになりました。誰に強制されるでもなく、自分たちの街を清潔に保とうとする気持ちと、一人一人が行動を律して新型コロナウイルス感染を押さえ込もうという気持ちとは同じものです。私は、アノニムスで賑わう街より、静かに自粛している顔の見える街が好きです。私たちの社会は大きな曲がり角に立っています。あと一月、3月末に、私たちはどんな世界を見ているのでしょう。