Vol.16 ファイナルカウントダウン(3) 政治家の言葉、その耐えられない軽さ

2020.12.31

 2020年はコロナに明け、コロナに暮れようとしている。新型コロナウイルスパンデミックは、世界中を巻き込み、日本もいつの間にかその渦中に巻き込まれてこの先の行方が見えない。12月9日、新型コロナウイルス感染の再拡大が止まらないドイツのメルケル首相が国会で演説した。感染拡大に対処するための予算について語っていた首相は、演説の終わりに近づいたとき、いつもの冷静さをかなぐり捨てて、国民に語りかけた。「科学者たちは、クリスマスの休暇に、市民の接触を必要最小限のレベルまで減らすべきだと提言しています。私はこれがいかに難しいかを知っています。クリスマスの風物詩であるホットワインやワッフルの露店が町の広場で準備されていた時に、政府から『食べ物を屋外で食べてはならず、家に持ち帰らなくてはならない』と命じられることが、人々にとっていかにつらく不愉快であるか、私は理解できます。申し訳ありません。私は心から申し訳なく思います。しかし接触が減らない場合、我々は毎日590人の命が失われるという代償を払わなくてはなりません。これは、私の考えでは絶対に受け入れられません。したがって、我々は今行動しなくてはならないのです」。さらに、東ドイツで生まれ育った自分は、国家が個人の自由を制限することの不快さを誰よりもよく知っている、その自分が、今は我慢してもらいたいと訴えているのだと続けた。メルケル首相の演説は、NHKもBBCもCNNもフランス2など世界中の放送局によって報道され、世界中の人の心を打った。
 日本でも、2020年が終わろうとする現在、新型コロナウイルス感染拡大が止まらない。政府は行動の自制を訴えるが具体性を欠き、対策は後手、後手に回って効果が上がらない。そんな中、5人以上の会食自粛を国民に要請しながら、総理大臣が堂々とその自粛を破る。破った挙げ句の釈明が、「国民の誤解を招くという意味においては真摯に反省している」である。国民の誤解とは何だ? 私は、悪いことはしていないのですが、皆さんがそれを誤解したならごめんなさいということか? さらに呆れ返るのは、別の閣僚の「一律5人以上がダメと言っているわけではない。強制力があるわけでもない」という提灯持ちのような身内擁護である。「専門家が何かエビデンスがあって何人以上と言われているわけではない」と言うに及んで開いた口が塞がらない。年末に近づき、『先手、先手の対策を打つ』と総理大臣が連呼するたびむなしさが募る。
政治家が、国民に自制を求めておきながら、自分たちがそれを守らず、愚行が露見すると居直るのは、今に始まったことではない。最初の感染拡大が起こり始めたころ、東京都が公園での花見を自粛するように求めているのに、総理大臣夫人が、夜桜の下で、大勢で浮かれる写真をSNSに公開した。批判を受けると、総理大臣は、「(妻は)東京都が求めている公園などでの花見のような宴会を行っていたわけではない」、「レストランに行ってはいけないのか?」と反論した。発言の主は、大勢が集まって酒を飲みながら食事をし、挙げ句に密集して集合写真を撮れば、場所が公園だろうと高級レストランだろうと感染リスクは高いのだということがわからないのだろうか。レストランの花見といい、多人数の忘年会といい、それがなぜダメなのか、政治家が分かっていないのか、わかっているけどやめられないのか。二人の総理大臣には、いささか古めかしいけれど修身斉家治国平天下と言う言葉を贈りたい。
 日本の感染者数は、欧米諸国に比べて少ない。しかし、この1年を振り返って、それが、防疫政策のおかげとは到底思えない。「第一波」が収まったかに見えるとただちに緊急事態制限を解除して翌週から感染再拡大を引き起こす。「第二波」の行方が定まらないうちにGO-TOキャンペーンを前倒しで行って手のつけられない「第三波」を誘発した。この間の政策は、火が治まりそうになるとすぐにまだくすぶっている焼け跡に油を注ぎ、風を送って火を大きくしているようにしか見えない。11月25日、政府は「勝負の3週間」と訴えて、国民に感染機会の縮小を求めたが、東京発着の高齢者にGO-TOトラベル利用の自粛を求めたのは12月1日、GO-TOトラベルの全国一律停止を決めたのは12月14日である。これを後手、後手と言わずして何と言えばよいのだろう。流行の波にあえてカギ括弧をつけたのは、私たちは現時点においてまだ一度もコロナウイルス感染を押さえ込んではおらず、3月以降今日まで多少の波を持ちながら感染拡大は一貫して続いているのではないかと私は思うからだ。
 ドイツでは、感染拡大の早い時期から、このパンデミックを第二次世界大戦以降最大の国難だと位置づけていた。日本の政治家にそういう見通しと覚悟があっただろうか。広く様々な角度から予見なく情報を求め、科学的な分析に基づいて正しい道を模索しようとする誠実さがあっただろうか。責任を持って政策を打ちだし、その結果に批判があれば堂々と受け止める覚悟があっただろうか。見通しも、覚悟も、誠実さもなかった。今日、東京の新規感染者数は1337人である。2020年12月31日、私たちの前に現出している感染状況、経済状況こそが、この1年の日本政府、自治体の感染対策に対する評価である。
感染がここまで拡大すれば、押さえ込むのは至難の業である。国民に強いる行動制限も厳しくなり、要する時間も長くなる。ひとつの対策が短期的成果を上げない可能性も大きくなる。そういうとき、目先の利益しか考えられない政治家、科学的な思考の出来ない行政が打ち出す感染防護策に、納税者は従うだろうか。みんなが従わなければ感染コントロールは出来ず、感染拡大がさらに進み、対応はさらに難しくなる。今日、日本の政治家には心に響く言葉がない。言葉が心に響かないのは、彼らの言葉に誠意や真心がこもっていないからだ。虚しく具体性のないキャッチーなだけのフレーズを連呼するときはカメラ目線で見栄を切る。納税者の反発を受けそうな対策を語るときは、「専門家のご意見もうかがって」、「各自治体の責任で」、「政府に対応をお願いしないと」と、逃げをうち、責任を引き受けようとしない。ポピュリズムだけで延命を図る政権は、危機に際して国民に犠牲を伴う厳しい対策への協力を求めることが出来ない。対応が後手、後手になって自滅する。政策崩壊のつけを払うのは納税者だ。しかし、民主主義のこの国で、この人たちを自分たちのリーダに選んだのは他ならぬ私たちであることを、肝に銘じなければいけない。事ここに至れば、痛みを伴っても科学的な根拠のある行動制限を実施する以外に打つ手はない。対策が遅れれば遅れるほど、行動制限が必要な期間は長くなる。政治、行政が迷走する時、専門家の役割は、政治や行政のシナリオにそったエビデンスもどきを集めることではない。民主主義国家では、すべての人が各々の責任を自覚して行動しなければならない。