2000年4月号 疼痛性ショック実習記

2000.4月号

 去年の初夏のことです。恥ずかしながらちょっとした油断から肋骨を折りました。胸郭の過度の伸展を防ぐため、バストバンドなるものを装着させられました。深く息を吸い込めず、ちょっと歩いただけで、チョモランマ山頂に居るように息が上がります。拘束性換気障害を身をもって体験しました。1日たりとも 予約に穴は空けられません。脂汗を額ににじませ、歯を食いしばって診療いたしました。事情を知らない方からは、いつもの元気印らしくないと言われてしまいました。
 一日の疲れを癒すべき睡眠が大問題となります。寝返りがうてません。布団に接している部分に体重がかかります。1時間もするとおのれの重みによる圧迫感で目が覚め、切れ切れにしか寝れません。寝返りが合目的的なものであり、寝たきり状態の患者さんに辱創ができるわけがよく分かりました。受傷後1か月は咳、くしゃみの度に患部が痛み、目から火花が散りました。
 骨折部周囲の炎症が真っ盛りの受傷後3日目のことです。椅子から立とうとした際に身体をひねり、骨折部の断端に激痛が走りました。次の瞬間、目の前が 真っ暗になって平衡感覚を失い、とっさに傍らの机に手をついて身体を支えました。暖かかったにもかかわらず手足に冷感がして、急いでセーターを着込みましたが、寒くて歯の根が合いません。傍らにいた山の神の目には、血の気が失せて今にも死にそうに映りました。

 落ち着いてから、遥か昔に生理学で習ったことを思い出しました。三叉神経や肋間神経の分布領域に強烈な痛み刺激が加わると、時として迷走神経が過敏に反応して副交感神経が優位な状態となります。心拍数が落ちて血圧が下がり、脳血流が減少して失神に至ることも少なくありません。歯茎に痛い麻酔注射を打った直後に見られる疼痛性ショックそのものです。大出血などを伴わない一過性の循環不全ですから、脳血流が改善すれば回復します。但し、直ちに気分爽快とはならないことを身をもって知りました。

 大学から都立病院に至る27年間、重篤な全身的合併症を有する患者さんの歯科治療に携わって参りました。歯科では劇薬を静脈内投与したり、太い動脈を切断したりすることは殆どありません。痛くない治療を心掛ける術者の心の余裕と患者さんの信頼感、そして人間のホメオスターシス(身体の恒常性を保とうとする働き)があれば、事故は防止できると固く信じております。浸潤麻酔では33Gの注射針を用いるようにしております。蚊の針をやや太めにしたくらいのものです。これだけの細い注射針を作れるのは、日本の町工場の世界に誇る技術です。肋骨骨折後、それまでにも増して、麻酔注射は自分の歯茎に打つつもりで丁寧に行うようになりました。
肋骨を折る災難にもたった一つだけ良いことがありました。奥さんというよりは“外さん”、3食昼寝テニス付きの当家山姥は、給料日には私でなく銀行の現金自動支払機様に手を合わせておりました。
旦那はいつも元気で死なないと思っていたのです。事故後、荒天の時は車で職場まで送ってくれるようになりました。あばら一本で小さな幸せが呼び込めました。

P.S.;御紹介いただいた患者さんについてご報告がない場合は、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。特に、歯科を経由して他科に診療依頼したケースでは、お返事を忘れてしまうことがございます。連携室にFAXにてお問い合わせいただければ幸いです。〔歯科・口腔外科医長佐野晴 男〕

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